2004年04月27日

ブックフェアでの富田倫生氏講演ムービー

富田倫生講演ムービー(コンピュータ博物館プロジェクト)

aozora blogより。

aozora blog には、Juki さんによるレポートも掲載されている。

富田さんのお話:一聴衆の記憶による

青空文庫がスタートする直前だったと思うのだけど、マックワールドエキスポのボイジャーブースで、かじりつきで富田さんの講演を拝聴したことがあった。買ったばかりのデジカメでサイズめいっぱいのムービーを撮った。その時の様子をエキスパンドブックにまとめたりして、いつか御本人にプレゼントしようと思っていたのだけど、生来のずぼらがたたって、そのままになってしまっている。

ブースの片隅で、小さなスピーカーをつないだ小さなマイクだけの状態で、絶版になった旺文社文庫版『パソコン創世記』を片手に熱く語っていた。そうだ、『本の未来』がちょうど出版された時だった。ぼくはわざわざ『青空のリスタート』の単行本を持っていって、サインしてもらったのだった。ミーハーだねぇ。

ぼくは『青空のリスタート』の富田倫生が好きなのだ。自分でビデオカメラを抱えて、ムービーを編集して作ったCD−ROM版『パソコン創世記』を作った富田倫生も好きだ。ニフティ・サーブで自分がボードリーダーとなった会議室を手に入れて、いかに富田倫生にほれこんでいるかを書き散らしたこともあったっけ。「はずかしいからよしなさいよ」と本人の書き込みがあったときはうれしいやら照れるやら。

人生は何度でもリスタートできる。リセットじゃない、リスタートだ。
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2004年04月20日

コメントを削除したこと

少し考えたけど、コメントを削除した。
理由は、ずいぶんと感情的な内容であったこと、匿名による書き込みだったこと、個人名がだされていたことなど。
特定の個人に対する中傷を意図したものではなかったが、自分のことだと思い込んだ人からクレームがついた。元のエントリーから疑わしい箇所はカットすることにした。
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2004年04月13日

本格化する電子書籍?(その2)

リブリエの戦略に関する考察として、[本]のメルマガ vol.173号におけるaguni氏の“「脱書脳記3」本という商材(その1)”をブックマークしておきたい。
商売の肝は「閉じられた端末」という構造にある。ダウンロード
したコンテンツがその端末からコピーできないことが、この商売を支える基礎
技術となった。

つまり電子書籍の成功要因は、権利ビジネスとしての意味付けができるか、
というところと、その端末の魅力に左右される。勘違いしてはならないのは、
最後に勝つのは有力なコンテンツを口説いたところではなく、権利を持ってい
るところにきちんとビジネスをさせる仕組みを構築できるかどうか、といった
ところなのである。

ソニーの潔さは、電子書籍端末を明らかに、書籍の延長としては考えていな
いところにある。これは新しいデバイスであり、新しいサービスである。そう
考えれば、市場はいくらでも広がるだろう。そう、着メロが決してカラオケの
延長ではなかったように。
キーワードは「権利ビジネス」だろう。ボイジャーがドットブックをリリースしたとき、ぼくが真っ先に思ったのもそれだった。正直、生臭い言葉なのだが、こいつを狙ってあらゆる業種の企業が躍起になっているのが電子書籍をとりまく現状であることは間違いない。

最期の質問もなかなかにするどい。しかしながら、aguni氏が指摘しているとおり、本を買うために使う4万円と、読書端末を買うために使う4万円は、おそらく同質には判断できない。
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2004年04月12日

本格化する電子書籍?

他人様の意見をどうこう言うようなことは本意ではないのだけど、まったく違うスタンスの意見もあるということは、ネットのどこかに書いておいてもいいだろうと思う。ちゃんと時間を取って、誤解なく伝えられるように書くべきなんだけど、とりあえずメモを残しておくことにする。

ことの始まりはこちらのページを目にしたことから。

本格化する電子書籍(こらむる。)

それに対して、こんな風に書いているページにもたどりつく。
電子書籍店店長のひとりごと
充実した内容で、書かれていることは理路整然としていてすばらしい物でした。
少なくともデジタルであることの必然性を追っていくことは命題であると以前から思っています。
んー、それでいいのか?と。

●「電子書籍が普及するためにはデジタルでしかできないことを云々」というお題目に対する議論は旧世紀にさんざんやってきた。
ようこそ電子書籍の世界へ。誰もが口にするお題目、それが「紙の本と同じことをやっていてはだめだ。電子本はデジタルでしかできないことをやらなければ」である。そんなもん、どうでもいいんだ。あるいは、デジタルでならではの特性をフルに活用した結果が、六〇日で読めなくなる本だ。リンクでもない、動画でもない。ガチガチのセキュリティと、時限制にしばられたデータ形式、これこそが現時点で最高のデジタル技術。
ぼくは、あらゆるコンテンツがデジタルで記録されていくことこそがまず肝要なのではないかと思う。とにかく残すこと。記録し、保存すること。誰もがアクセスできること。表現し、リンクし、評価すること。

●「電子書籍なら誰もが出版できる」わけがない。
もっと先の電子出版のことを見越して書いているのかもしれないが、シグマブックやリブリエのコンテンツがどのようなものかを知らないで書いているなら、残念ながらこれは甘い夢想だ。かつてエキスパンドブックの時代から多くの人が抱き続けてきた幻想であり、野望でもあった。
実際、本なら出せる。誰にだって。
紙の本だって、版下を作って印刷屋さんにデータを入稿するだけで簡単にできあがる。問題は、書店で売ることができるのか、それで商売が成り立つのか、という部分なのだ。
電子書籍の10年は、この根元的な部分を模索しながらも、翻弄され続けた10年だった。
何を持って「出版できる」とするのか。パブリッシュすることなのか、金儲けなのか、リブリエで読まれることなのか。

●過度の中抜きは市場を殺す。
一冊の本ができあがり、誰かに届けられるまでに、いったいどれだけの人の手が関わっているかを想像することはとても難しい。そこに落とし込まれるさまざまな技術、人の叡智に思い至ることができない輩は、たやすくそれを余計なこと、ロスだなどと言ってのける。これが感性の欠如でなくてなんであろう。
過度の中抜きは成立し得ない。印刷業者は死に至るかもしれない。そのプロセス、その費用が単に別のどこかに流れていくだけだ。

●このテキストで大切な指摘があるとしたら、「出版社はその役割を変えていくべきである」という部分だろう。
「電子書籍の時代になっても出版社は必要。ただし、それを担っていくのは紙の本を作ってきた出版人ではないだろう」と書いたことがある。紙の本の発想では、電子書籍をつくることはできない。しかし、出版人の魂を持たない人がそれに手を出せば、手痛いやけどを負うことになるだろう。困ったことに、そのケガは周囲の者さえも傷つけることがある。

リブリエのスタイルは、成功しても失敗しても、深いところで取り返しのつかない傷を負わせることになるのではないかと思う。しかし、そうしなければ電子書籍という市場が立ち上がらないのかもしれないというなら、まずやってみる、というのが松田氏の選択なんだろう。たとえ残るのは焼け野原だけだったとしても。

リブリエは携帯電話やPS2のように、それとなく市場に浸透していくのかもしれないし、好事家の余興で終わるかもしれない。そのどちらに転ぶにしても、何らかのカウンターを生み出していく…、その向こうに光明を見いだせるだろうと信じたい。

電子書籍は、誰のものになるだろうか。

いま電子書籍と呼ばれているモノはいったいどんなものなのか。
それはどのような文脈で生まれてきたモノなのか。
それと、これはどうでもいいことかもしれないけれど、かつて横丁作家と呼ばれたような連中が夢中になったアレはなんだったのか。ボイジャーが取り組んできたこと、萩野さんが「股旅ノート」で伝えようとしたこと。
リブリエやシグマブックの流れを汲む電子書籍市場が、それらの受け皿となる日はやってくるだろうか。
両者が乖離し続ける限り、本意ではないメモが増えていくのかもしれない。
posted by 多村栄輝 at 19:03| Comment(0) | TrackBack(0) | Note | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月06日

ドットブックお試しコース

さきほど「ドットブックは門戸が閉ざされている」と書いたが、5作品までならボイジャーは無償でドットブックを作成してくれる(マスターとなるTTXファイル持ち込み・契約期間1年)。出来上がったドットブックは、ドットブック正規販売サイトで販売することができる、とある。

ライセンス契約について

いろいろとややこしいところはあるけれど、完全に門戸を閉ざしているわけではない。

ボイジャーのサイトを久しぶりに見ていて、昨年「登録ユーザー専用ページ」ができていたことを思い出した。まったくアクセスしたことがなかったことも。
posted by 多村栄輝 at 16:05| Comment(0) | TrackBack(0) | Note | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月05日

「週刊ドットブック」はもう読めない

ふと「そういえば ZDNet ってなくなったんだっけ」と思い出し、IT Media のサイトをたどってみたところ、「週刊ドットブック」は最終回がかろうじて移転しているだけで、それ以外のコンテンツは読むことが出来なくなっていた。オーマイガ。

「The Complete OZU」「書を捨てよ、町へ出よう」「LE LIVRE DE LULU(ルルの本)」、この回で取り上げられているほとんどのタイトルを持っている。今も持っている。ドン・ノーマンの「機械時代における人間性の擁護」は、いつか日本語版がでると信じて待っていたけど、けっきょくその機会は訪れなかった。「LE LIVRE DE LULU(ルルの本)」は、いつだったかのマックワールドエキスポで原語版を買ってしまったので、なんだか悔しくて(?)日本語版を買わなかったのだった。

「LULU」はたしか、QuickTime のバージョンが上がって再生できなくなったと聞いている。

いつだったか、息子が3歳になった頃、「ダズロイド」をみせてあげようとしたのだけど、我が家の iMac DV(これでもけっこうオールドマシンだ)では表示させることができなかった。「サーカス!」はかろうじて立ち上がったので、家族でゾウのダンスや人間大砲のショーを楽しんだ。

ぼくはエキスパンドブックが好きだ。エキスパンドブックが OS X で動けばいいのにと、今も思っている。祝田さんは自分のために、こっそり作っているんじゃないかと、そんなことも信じている。

ボイジャーの次の一手も楽しみだけど(次の東京国際ブックフェアでは、きっと何かをぶつけてくるだろう)、ハイパーカードやエキスパンドブック、マルチメディアともてはやされたCD−ROMタイトルたちと戯れるのも悪くないだろう? 動かなくなったからといって、作品たちの価値がさがるわけではない。それらは歴史的骨董品ではない。二十一世紀に十分通用する、立派な作品群なのである。

こうして、たまにしんみりする夜もある。
posted by 多村栄輝 at 18:33| Comment(0) | TrackBack(0) | Note | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年03月31日

PooKで最初に読んだのは

股旅ノート

萩野正昭氏の『股旅ノート』をDOCファイルに変換して読み返した。ウェブページで読んだことがあったのに、こうして掌の中のそれを読んでいくと、あらたに気付かされることのなんと多いことか。この件についてはいずれあらためて書きたいと思っている。

股旅ノートのページはこちら
posted by 多村栄輝 at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Note | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年03月25日

リブリエもタイムブックもヒットするかもしれない、だがしかし

六〇日で読めなくなる本は、まちがいなく従来の書物の概念からはみだしている。それは消費のための消費財でしかない。何度も読み返したり、座右の書とするシロモノではなく、気軽に買って、気軽に読んで、忙しく暮らしているうちに「捨てるしかなくなる」。それをなんとも思わない風潮を加速させるだろう。

なるほど、読みたくなれば、またダウンロードすればよいのだから(金はかかるけど、レンタルビデオのように安価だ)、なにも限りあるストレージを占有し続ける必要はどこにもないのだ。そして、何度でも買わせることによって、電子書籍市場は売り上げを伸ばしていくかもしれない。まずは市場を立ち上げることだ。金が動かなければ、人はやってこないのだ。悪魔に魂を売り渡したかのように思える行為だが、商売を成立させてしまえば、やがてそれで糊口をしのぐ人が増えていくだろう。

デジタルデータの特性を巧妙に利用した手法である。なにも、「デジタルは完璧な複製がいくつでも作れる(だからセキュリティを強化しなければならない)」だけがデジタルの特性ではない、ということだろう。

六〇日目を迎えた電子書籍は、読むことができないデータとしてそこに残るという。どうにもならなくなったデータは、自分で消去しなければならない。石のようになり、その命を失った「かつて書籍だったそれ」をデリートするときの、愛書家の気持ちを思うと、胸が痛む。やがて彼らがそれを受け入れていくことを思うと…。

リブリエは1万ページ分電池交換が不要だという。1万ページ目をひらくまで、そのマシンが動作するという保証はなかったりするのだけど。ああソニータイマーよ、ダモクレスの剣よ…。
posted by 多村栄輝 at 18:41| Comment(0) | TrackBack(0) | Note | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年03月15日

おそらくみんながんばっているわけで

先日のエントリーがちょっと途中で筆を置いたような状態だったので、まるでぼくが拗ねているような印象があったかもしれないけど、そんなことはまったくないのでご心配なく。

編集同人としてはあまり貢献できなかったという負い目もあるわけで、そのへんがつっけんどんな書き方になったわけで。

「書評パンチ」の同人のみなさんは、拡散しちゃったのか今もぼくの知らないところでつるんでらっしゃるのか、そういうこともあいまいになっていたりするんだけど、たぶんみんな自分のフィールドで賢明にがんばっていると思うので、特に心配は何もしてない。でもちょっと寂しいのかもね。忙しさにかまけて、交流を怠っている自分というのが。

ぼくはあいかわらず暖機状態ですが、仲俣さんをはじめ他のみなさんはバリバリの最前線で戦っている人たちだったりしますね。ファイト。
posted by 多村栄輝 at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | Note | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年02月23日

シグマブックのデモ機に触った

天満橋のジュンク堂に展示されているのを発見。時間がなかったのでほんの数分でしたが、初めて現物におめにかかることができました。

筐体は思ったよりもかっちりした造りでいい感じです。安っぽいという意見もあるようですが、普及機なんですから、あんまり高級感あっても困りものです。ちょっとキズがついても気にならないくらいのチープさがあってちょうどいいと思う。もちょっと広まってくれば、革張りの高級機でもなんでも、あらためて出せばよい。

画面は分かっていたけど、たしかに青いね。だからって読めないとかそういうわけではなくて、空色の上質紙に青インクで印刷しているような感じ。書籍用紙っていうのは、白じゃなくて黄色がかった紙が主流ですから、なるべくそっちに近づける方向での努力を求む。

重量はこんなもんだろう。ハードカバーの本を持ち歩いて読むのが平気な自分としては、たいして気にならない。

根本的な問題に気が付いた。この製品は、片手で持ちながらページをめくることができない。両手で正しい姿勢でホールドしながら使うことを想定した位置にしかページめくりボタンがない。通勤電車で吊革につかまりながら、読むことができないのだ。通勤仕様のハードの開発を求む。

ページめくりのタイムラグは、まぁちょっと遅いかなって感じだが、ギリギリ許容範囲だと思う。

それよりもむしろ驚いたのは、見開き仕様がちっとも身体感覚として馴染まないことだった。左ページ左下まで読み終えてからページめくりボタンを押したあと、視線がそこから動かない。右ページ右上に視線移動させなければならないということを、いちいち意識しないといけないのだ。これには本当に驚いた。はじめ、自分に何が起こっているのか理解できなかったくらいだ。

あとで考えてみたのだが、紙の本はページをめくるときに、眼前を紙が一枚移動していくそのアクションの中で、視線を再セットしているのではないだろうか。パラリとページをめくるとき、紙の移動にあわせて視線も移動させて、右ページ右上へと、無意識のうちにセットしなおしているのである。シグマブックではこれができない。だから視線がさまよってしまったのではないか。

この身体感覚は、いずれ修正可能だろうか。つまり、慣れることができるだろうか。できるかもしれないし、できないかもしれない。「歩くときは右手と左足が同時に出る」にも匹敵する、言語化されない無意識の動作なので、ユーザーは「なんとなく読みにくい」と感じたり、まったく違った事柄を不満の対象に取り上げるようになるかもしれないね。
posted by 多村栄輝 at 17:42| Comment(0) | TrackBack(0) | Note | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年01月17日

さよなら電子本

誰かがそれのことを「電子本」と呼んでからというもの、
誤解が誤解を生み続けた二〇世紀。

インターネットの黎明期、誰かが
「ウェブページって、立派な電子出版だ」
と言った。

それからネットは爆発的に普及して、
ウェブはさまざまな属性を受け持つようになった。

ウェブページは電子出版。
ウェブページは電子書籍。
そのとおりだと思うよ。

かつて、
「Book」と呼ばれていたものが
担っていた役割がなんだったのかを
考えてみればいい。

ブログはそのカラーをより強めている。
きっと、時代が生み出したパブリッシュのスタイルなんだ。

みんなの頭の中にある本は、
印刷された紙が製本されたものだ。
しかも、本屋で買える本だ。

だから誰かがそれのことを「電子本」とレッテルを貼ってしまったときに、
紙じゃない、製本されていない、インクのにおいがしないと不平をこぼした。

二十一世紀は、本の定義が、根底からくつがえされていく。
誰もそれが本だなんて気が付かないかもしれない。
だから、みんなもそれを電子本だなんて呼ぶのはやめようぜ。
電子本なんて、ぼくたちには必要ない。
パブリッシュすることと、それを受け取ること。
そのような行為の表出したものこそが「Book」であってほしい。
出版社や取次や書店が商売するための商材のことはどうでもいい。
そっちはそっちでやってくれればいい。

電子本を電子本という言葉で語らないでほしい。

あたらしい言葉を生み出そう。
あらたに定義しよう。
あたらしい意味と価値をあたえよう。
二〇世紀の呪縛から逃げ出そう。
posted by 多村栄輝 at 12:44| Comment(0) | TrackBack(0) | Note | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする