他人様の意見をどうこう言うようなことは本意ではないのだけど、まったく違うスタンスの意見もあるということは、ネットのどこかに書いておいてもいいだろうと思う。ちゃんと時間を取って、誤解なく伝えられるように書くべきなんだけど、とりあえずメモを残しておくことにする。
ことの始まりはこちらのページを目にしたことから。
本格化する電子書籍(こらむる。)それに対して、こんな風に書いているページにもたどりつく。
電子書籍店店長のひとりごと
充実した内容で、書かれていることは理路整然としていてすばらしい物でした。
少なくともデジタルであることの必然性を追っていくことは命題であると以前から思っています。
んー、それでいいのか?と。
●「電子書籍が普及するためにはデジタルでしかできないことを云々」というお題目に対する議論は旧世紀にさんざんやってきた。
ようこそ電子書籍の世界へ。誰もが口にするお題目、それが「紙の本と同じことをやっていてはだめだ。電子本はデジタルでしかできないことをやらなければ」である。そんなもん、どうでもいいんだ。あるいは、デジタルでならではの特性をフルに活用した結果が、六〇日で読めなくなる本だ。リンクでもない、動画でもない。ガチガチのセキュリティと、時限制にしばられたデータ形式、これこそが現時点で最高のデジタル技術。
ぼくは、あらゆるコンテンツがデジタルで記録されていくことこそがまず肝要なのではないかと思う。とにかく残すこと。記録し、保存すること。誰もがアクセスできること。表現し、リンクし、評価すること。
●「電子書籍なら誰もが出版できる」わけがない。
もっと先の電子出版のことを見越して書いているのかもしれないが、シグマブックやリブリエのコンテンツがどのようなものかを知らないで書いているなら、残念ながらこれは甘い夢想だ。かつてエキスパンドブックの時代から多くの人が抱き続けてきた幻想であり、野望でもあった。
実際、本なら出せる。誰にだって。
紙の本だって、版下を作って印刷屋さんにデータを入稿するだけで簡単にできあがる。問題は、書店で売ることができるのか、それで商売が成り立つのか、という部分なのだ。
電子書籍の10年は、この根元的な部分を模索しながらも、翻弄され続けた10年だった。
何を持って「出版できる」とするのか。パブリッシュすることなのか、金儲けなのか、リブリエで読まれることなのか。
●過度の中抜きは市場を殺す。
一冊の本ができあがり、誰かに届けられるまでに、いったいどれだけの人の手が関わっているかを想像することはとても難しい。そこに落とし込まれるさまざまな技術、人の叡智に思い至ることができない輩は、たやすくそれを余計なこと、ロスだなどと言ってのける。これが感性の欠如でなくてなんであろう。
過度の中抜きは成立し得ない。印刷業者は死に至るかもしれない。そのプロセス、その費用が単に別のどこかに流れていくだけだ。
●このテキストで大切な指摘があるとしたら、「出版社はその役割を変えていくべきである」という部分だろう。
「電子書籍の時代になっても出版社は必要。ただし、それを担っていくのは紙の本を作ってきた出版人ではないだろう」と書いたことがある。紙の本の発想では、電子書籍をつくることはできない。しかし、出版人の魂を持たない人がそれに手を出せば、手痛いやけどを負うことになるだろう。困ったことに、そのケガは周囲の者さえも傷つけることがある。
リブリエのスタイルは、成功しても失敗しても、深いところで取り返しのつかない傷を負わせることになるのではないかと思う。しかし、そうしなければ電子書籍という市場が立ち上がらないのかもしれないというなら、まずやってみる、というのが松田氏の選択なんだろう。たとえ残るのは焼け野原だけだったとしても。
リブリエは携帯電話やPS2のように、それとなく市場に浸透していくのかもしれないし、好事家の余興で終わるかもしれない。そのどちらに転ぶにしても、何らかのカウンターを生み出していく…、その向こうに光明を見いだせるだろうと信じたい。
電子書籍は、誰のものになるだろうか。
いま電子書籍と呼ばれているモノはいったいどんなものなのか。
それはどのような文脈で生まれてきたモノなのか。
それと、これはどうでもいいことかもしれないけれど、かつて横丁作家と呼ばれたような連中が夢中になったアレはなんだったのか。ボイジャーが取り組んできたこと、萩野さんが「股旅ノート」で伝えようとしたこと。
リブリエやシグマブックの流れを汲む電子書籍市場が、それらの受け皿となる日はやってくるだろうか。
両者が乖離し続ける限り、本意ではないメモが増えていくのかもしれない。